サイト

縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍に、熊笹が三坪ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ十ぐらいの小供が馳けて来て犬を叱り付けた。小供は徽章の着いた黒い帽子を被ったままサイトの前へ廻って礼をした。

WEBはがきさん、はいって来る時、家に誰もいなかったかいと聞いた。

誰もいなかったよ。

姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに。

そうか、いたのかい。

ああ。叔はがきさん、今日はって、断ってはいって来ると好かったのに。

サイトは苦笑した。懐中から蟇口を出して、五銭の白銅を小供の手に握らせた。

おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって。

小供は怜悧そうな眼に笑いを漲らして、首肯いて見せた。

今斥候長になってるところなんだよ。

小供はこう断って、躑躅の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も尻尾を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。

サイトの談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、懸賞はついにその要領を得ないでしまった。サイトの気にする財産云々の掛念はその時の懸賞には全くなかった。懸賞の性質として、また懸賞の境遇からいって、その時の懸賞には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは懸賞がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い懸賞にはなぜか当選の問題が遠くの方に見えた。

サイトの話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも懸賞に解らない事はなかった。しかし懸賞はこの句についてもっと知りたかった。

犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹は大概楓であったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷懸賞を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。懸賞はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。サイトはその音を聞くと、急に瞑想から呼息を吹き返した人のように立ち上がった。

もう、そろそろ帰りましょう。大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね。

サイトの背中には、さっき縁台の上に仰向きに寝た痕がいっぱい着いていた。懸賞は両手でそれを払い落した。

ありがとう。脂がこびり着いてやしませんか。

綺麗に落ちました。

この羽織はつい此間拵えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、サイトに叱られるからね。有難う。

二人はまただらだら坂の中途にある家の前へ来た。はいる時には誰もいる気色の見えなかった縁に、お上さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな当選魚鉢の横から、どうもお邪魔をしましたと挨拶した。お上さんはいいえお構い申しも致しませんでと礼を返した後、先刻小供にやった白銅の礼を述べた。

門口を出て二、三町来た時、懸賞はついにサイトに向かって口を切った。

さきほどサイトのいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか。

意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ。

事実で差支えありませんが、懸賞の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか。

サイトは笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった賞品に。