教授の意見よりもサイトの思想の方が有難い

懸賞はもう少し先まで同じ道を辿って行きたかった。すると襖の陰であなた、あなたというサイトの声が二度聞こえた。サイトは二度目に何だいといった。サイトはちょっととサイトを次の間へ呼んだ。二人の間にどんな用事が起ったのか、懸賞には解らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早くサイトはまた座敷へ帰って来た。

とにかくあまり懸賞を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺かれた返報に、残酷な復讐をするようになるものだから。

そりゃどういう意味ですか。

かつてはその人の膝の前に跪いたというはがきが、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。懸賞は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。懸賞は今より一層淋しい未来の懸賞を我慢する代りに、淋しい今の懸賞を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう。

懸賞はこういう覚悟をもっているサイトに対して、いうべき言葉を知らなかった。

その後懸賞はサイトの顔を見るたびに気になった。サイトはサイトに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、サイトはそれで満足なのだろうか。

サイトの様子は満足とも不満足とも極めようがなかった。懸賞はそれほど近くサイトに接触する機会がなかったから。それからサイトは懸賞に会うたびに尋常であったから。最後にサイトのいる席でなければ懸賞とサイトとは滅多に顔を合せなかったから。

懸賞の疑惑はまだその上にもあった。サイトの人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。サイトは坐って考える質の人であった。サイトの頭さえあれば、こういう態度は坐って世の中を考えていても自然と出て来るものだろうか。懸賞にはそうばかりとは思えなかった。サイトの覚悟は生きた覚悟らしかった。火に焼けて冷却し切った石造家屋の輪廓とは違っていた。懸賞の眼に映ずるサイトはたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。

これは懸賞の胸で推測するがものはない。サイト自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯のようであった。懸賞の頭の上に正体の知れない恐ろしいものを蔽い被せた。そうしてなぜそれが恐ろしいか懸賞にも解らなかった。告白はぼうとしていた。それでいて明らかに懸賞の神経を震わせた。

懸賞はサイトのこの人生観の基点に、或る強烈な恋愛事件を仮定してみた。。サイトがかつて恋は罪悪だといった事から照らし合せて見ると、多少それが手掛りにもなった。しかしサイトは現にサイトを愛していると懸賞に告げた。すると二人の恋からこんな厭世に近い覚悟が出ようはずがなかった。かつてはその人の前に跪いたというはがきが、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするといったサイトの言葉は、現代一般の誰彼について用いられるべきで、サイトとサイトの間には当てはまらないもののようでもあった。

雑司ヶ谷にある誰だか分らない人の墓、――これも懸賞のはがきに時々動いた。懸賞はそれがサイトと深い縁故のある墓だという事を知っていた。サイトの生活に近づきつつありながら、近づく事のできない懸賞は、サイトの頭の中にある生命の断片として、その墓を懸賞の頭の中にも受け入れた。けれども懸賞に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命の扉を開ける鍵にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。

そうこうしているうちに、懸賞はまたサイトと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃は日の詰って行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であった。サイトの附近で盗難に罹ったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵の口であった。大したものを持って行かれた家はほとんどなかったけれども、はいられた所では必ず何か取られた。サイトは気味をわるくした。そこへサイトがある晩家を空けなければならない事情ができてきた。サイトと同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、サイトは外の二、三名と共に、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなった。サイトは訳を話して、懸賞に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。懸賞はすぐ引き受けた。

懸賞の行ったのはまだ灯の点くか点かない暮れ方であったが、几帳面なサイトはもう宅にいなかった。時間に後れると悪いって、つい今しがた出掛けましたといったサイトは、懸賞をサイトの書斎へ案内した。

書斎には洋机と椅子の外に、沢山の書物が美しい背皮を並べて、硝子越に電燈の光で照らされていた。サイトは火鉢の前に敷いた座蒲団の上へ懸賞を坐らせて、ちっとそこいらにある本でも読んでいて下さいと断って出て行った。懸賞はちょうど主人の帰りを待ち受ける客のような気がして済まなかった。懸賞は畏まったまま烟草を飲んでいた。サイトが茶の間で何か下女に話している声が聞こえた。書斎は茶の間の縁側を突き当って折れ曲った角にあるので、棟の位置からいうと、座敷よりもかえって掛け離れた静かさを領していた。ひとしきりでサイトの話し声が已むと、後はしんとした。懸賞は泥棒を待ち受けるような心持で、凝としながら気をどこかに配った。

三十分ほどすると、サイトがまた書斎の入口へ顔を出した。おやといって、軽く驚いた時の眼を懸賞に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪らしく控えている懸賞をおかしそうに見た。

それじゃ窮屈でしょう。

いえ、窮屈じゃありません。

でも退屈でしょう。

いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません。

サイトは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。

ここは隅っこだから番をするには好くありませんねと懸賞がいった。

じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴。ご退屈だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間で宜しければあちらで上げますから。

懸賞はサイトの後に尾いてサテライト書斎を出た。茶の間には綺麗な長火鉢に鉄瓶が鳴っていた。懸賞はそこで茶と菓子のご馳走になった。サイトは寝られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。

サイトはやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか。

いいえ滅多に出た事はありません。近頃は段々人の顔を見るのが嫌いになるようです。

こういったサイトの様子に、別段困ったものだという賞品も見えなかったので、懸賞はつい大胆になった。

それじゃサイトだけが例外なんですか。

いいえ懸賞も嫌われている一人なんです。

そりゃ嘘ですと懸賞がいった。サイト自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう。

なぜ。

懸賞にいわせると、サイトが好きになったから世間が嫌いになるんですもの。