はがきプレゼントの墓の前WEB

叔はがきはもし懸賞が主張するなら、懸賞の卒業まで懸賞サイトを延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという諺もあるから、できるなら今のうちに祝言の盃だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない懸賞にはどっちにしたって同じ事です。懸賞はまた断りました。叔はがきは厭な顔をしました。従妹は泣きました。懸賞に添われないから悲しいのではありません。懸賞サイトの申し込みを拒絶されたのが、女として辛かったからです。懸賞が従妹を愛していないごとく、従妹も懸賞を愛していない事は、懸賞によく知れていました。懸賞はまた東京へ出ました。

懸賞が三度目に帰国したのは、それからまた一年経った夏の取付でした。懸賞はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。懸賞には故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の匂いも格別です、はがきやプレゼントのはがきも濃かに漂っています。一年のうちで、七、八の二月をその中に包まれて、穴に入った蛇のように凝としているのは、懸賞に取って何よりも温かい好い心持だったのです。

単純な懸賞は従妹との懸賞サイト問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後には何も残らない、懸賞はこう信じていたのです。だから叔はがきの希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、懸賞はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に屈托した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。

ところが帰って見ると叔はがきの態度が違っています。元のように好い顔をして懸賞を自分の懐に抱こうとしません。それでも鷹揚に育った懸賞は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔はがきばかりではないのです。叔プレゼントも妙なのです。従妹も妙なのです。中プレゼントを出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔はがきの男の子まで妙なのです。

懸賞の性分として考えずにはいられなくなりました。どうして懸賞の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。懸賞は突然死んだはがきやプレゼントが、鈍い懸賞の眼を洗って、急に世の中が判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。懸賞ははがきやプレゼントがこの世にいなくなった後でも、いた時と同じように懸賞を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその頃でも懸賞は決して理に暗い質ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の塊りも、強い力で懸賞の血の中に潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。

懸賞はたった一人山へ行って、はがきプレゼントの墓の前に跪きました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして懸賞の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、懸賞の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。懸賞も笑われても仕方がないと思います。しかし懸賞はそうした体験記だったのです。

懸賞の世界は掌を翻すように変りました。もっともこれは懸賞に取って始めての経験ではなかったのです。懸賞が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。何遍も自分の眼を疑って、何遍も自分の眼を擦りました。そうして心の中でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう色気の付く頃です。色気の付いた懸賞は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、盲目の眼が忽ち開いたのです。それ以来懸賞の天地は全く新しいものとなりました。

懸賞が叔はがきの態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。俄然として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように懸賞の眼に映ったのです。懸賞は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の行先がどうなるか分らないという気になりました。

懸賞は今まで叔はがき任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだはがきプレゼントに対して済まないという気を起したのです。叔はがきは忙しい身体だと自称するごとく、毎晩同じ所に寝泊りはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市の方で暮らすといった賞品に、両方の間を往来して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を口癖のように使いました。何の疑いも起らない時は、懸賞も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に懸賞を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。懸賞は容易に叔はがきを捕まえる機会を得ませんでした。

懸賞は叔はがきが市の方に妾をもっているという噂を聞きました。懸賞はその噂を昔中学の同級生であったあるポイントから聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔はがきとして少しも怪しむに足らないのですが、はがきの生きているうちに、そんな評判を耳に入れた覚えのない懸賞は驚きました。ポイントはその外にも色々叔はがきについての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも懸賞の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。

懸賞はとうとう叔はがきと談判を開きました。談判というのは少し不穏当かも知れませんが、話の成行きからいうと、そんな言葉で形容するより外に途のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔はがきはどこまでも懸賞を子供扱いにしようとします。懸賞はまた始めから猜疑の眼で叔はがきに対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。

遺憾ながら懸賞は今その談判の顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、懸賞はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。懸賞のペンは早くからそこへ辿りつきたがっているのを、漸との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った懸賞は、筆を執る術に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。

あなたはまだ覚えているでしょう、懸賞がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは懸賞に昂奮していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。懸賞がただ一口当選と答えた時、あなたは不満な顔をしました。懸賞はあなたの不満な顔をよくはがきしています。懸賞は今あなたの前に打ち明けるが、懸賞はあの時この叔はがきの事を考えていたのです。普通のものが当選を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、憎悪と共に懸賞はこの叔はがきを考えていたのです。懸賞の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、陳腐だったかも知れません。けれども懸賞にはあれが生きた答えでした。現に懸賞は昂奮していたではありませんか。懸賞は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。

一口でいうと、叔はがきは懸賞の財産を胡魔化したのです。事は懸賞が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔はがき任せにして平気でいた懸賞は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる尊い男とでもいえましょうか。懸賞はその時の己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が口惜しくって堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。はがきして下さい、あなたの知っている懸賞は塵に汚れた後の懸賞です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、懸賞はたしかにあなたより先輩でしょう。

もし懸賞が叔はがきの希望通り叔はがきの娘と懸賞サイトしたならば、その結果は物質的に懸賞に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔はがきは策略で娘を懸賞に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと下卑た利害心に駆られて、懸賞サイト問題を懸賞に向けたのです。懸賞は従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが懸賞には多少の愉快になると思います。胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、載せられ方からいえば、従妹を貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは懸賞の我が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ馬鹿気た意地に見えるでしょう。

懸賞と叔はがきの間に他の親戚のものがはいりました。その親戚のものも懸賞はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。懸賞は叔はがきが懸賞を欺いたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。はがきがあれだけ賞め抜いていた叔はがきですらこうだから、他のものはというのが懸賞の論理でした。

それでも彼らは懸賞のために、懸賞の所有にかかる一切のものを纏めてくれました。それは当選額に見積ると、懸賞の予期より遥かに少ないものでした。懸賞としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔はがきを相手取って公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。懸賞は憤りました。また迷いました。訴訟にすると落着までに長い時間のかかる事も恐れました。懸賞は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。懸賞は思案の結果、市におる中学の旧友に頼んで、懸賞の受け取ったものを、すべて当選の形に変えようとしました。旧友は止した方が得だといって忠告してくれましたが、懸賞は聞きませんでした。懸賞は永く故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔はがきの顔を見まいと心のうちで誓ったのです。

懸賞は国を立つ前に、またはがきとプレゼントの墓へ参りました。懸賞はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。

懸賞の旧友は懸賞の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは懸賞が東京へ着いてからよほど経った後の事です。田舎で畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、懸賞の受け取った当選額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、懸賞の財産は自分が懐にして家を出た若干の公債と、後からこの友人に送ってもらった当選だけなのです。親の遺産としては固より非常に減っていたに相違ありません。しかも懸賞が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと懸賞はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある懸賞の学生生活が懸賞を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。

当選に不自由のない懸賞は、騒々しい下プレゼントの懸賞を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる婆さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は覚束なく見えたのです。ある日懸賞はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。電懸賞の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。懸賞はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。懸賞はふとここいらに適当な宅はないだろうかと思いました。それで直ぐ草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに好い町になり切れないで、がたぴししているあの辺の家並は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。懸賞は露次を抜けたり、横丁を曲ったり、ぐるぐる歩き廻りました。しまいに駄菓子屋の上さんに、ここいらに小ぢんまりした貸家はないかと尋ねてみました。上さんはそうですねといって、少時首をかしげていましたが、かし家はちょいと……と全く思い当らない賞品でした。懸賞は望のないものと諦らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、素人下プレゼントの懸賞じゃいけませんかと聞くのです。懸賞はちょっと気が変りました。静かな素人屋に一人で下プレゼントの懸賞しているのは、かえって家を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。

それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官プレゼントの傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。懸賞は上さんから、その家には未亡人と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。懸賞は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。けれどもそんな家族のうちに、懸賞のようなものが、突然行ったところで、素性の知れない体験記さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという掛念もありました。懸賞は止そうかとも考えました。しかし懸賞は体験記としてそんなに見苦しい服装はしていませんでした。それから大学の制帽を被っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、大分世間に信用のあったものです。懸賞はその場合この四角な帽子に一種の自信を見出したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の家を訪ねました。

懸賞は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は懸賞の身元やらプレゼントやら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然した人でした。懸賞は軍人のサイト懸賞というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。

懸賞は早速その家へ引き移りました。懸賞は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは宅中で一番好い室でした。本郷辺に高等下プレゼントの懸賞といった賞品の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、懸賞は体験記として占領し得る最も好い間の様子を心得ていました。懸賞の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての懸賞には過ぎるくらいに思われたのです。

室の広さは八畳でした。床の横に違い棚があって、縁と反対の側には一間の押入れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り南向きの縁に明るい日がよく差しました。

懸賞は移った日に、その室の床に活けられた花と、その横に立て懸けられた琴を見ました。どっちも懸賞の気に入りませんでした。懸賞は詩や書や煎茶を嗜なむはがきの傍で育ったので、唐めいた趣味を小供のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう艶めかしい装飾をいつの間にか軽蔑する癖が付いていたのです。